違憲訴訟の原告のひとりである志田陽子さんから、提訴に向けた思いを寄せていただきました。
原告:憲法研究者および教員として
志田陽子(私立大学教授・専門:憲法学および言論法)
私は私立大学に勤務し、教職科目「日本国憲法」を担当する教員です。憲法研究者としても論文発表、講演などの活動を行っています。
2014年の閣議決定による第9条の解釈変更以来、現在に至る安全保障法制に関する国政の動きは、憲法研究者・憲法教育者に多くの精神的・人格的損害と、職業遂行にかかわる損害を与えています。私はその救済を求めるために提訴に踏み切りました。
憲法研究者・教員としての職責への支障
憲法一般の根幹となる考え方(立憲主義・国民主権など)や、自国の憲法の規範内容を学生に教えること、そして各種の情報をもとに学生自身に考えさせることは、憲法教育者の職業上の責務です。
残念ながら現在、高校までの教育者の多くは、「政治的偏向」との指弾を受けることを怖れて、本来の主権者教育に踏み出しにくい状況に置かれています。そのようなときには、「学問の自由」を保障された大学教員が、授業や講演会などを通じて上記の要請にかなう知見を提供する責務を負うことになります。
しかし2014年7月の閣議決定以来、この職業的責務を果たせなくなる事態が、私も含め、多くの大学教育関係者の身に生じています。
2014年の閣議決定で「集団的自衛権の行使が憲法上容認される」との解釈が示されて以降、教員たちは、それ以前の政府解釈とあまりに異なる新たな政府見解を、教育の場でどのように位置付けて語ったら良いのか、非常に困惑しました。
2015年9月の議決についても、その様子が一般国民の目にはとても「議決」と呼ぶべきものには見えず、多くの法律実務専門家を含む識者が「議決不存在」の主張を行いました。そうなりますと、「この安保法制関連法が合憲なのかどうか」とともに「これがいったい有効に成立したのか」ということも、私たち教育者にはわからないのです。
その状況で、政府見解と2015年7月・9月に採決にかけられた法制の内容のみをただ教え込む姿勢をとることは、まさに政治的偏向教育となるおそれがあります。したがって、多くの教員が、憲法教育および主権者教育のあり方として、学生に対してこの問題について賛否両論の材料提供を行うべきだと考えました。私もその一人です。
しかし、そうした考えを持つ教員・研究者の多くが、本来の教育活動や社会活動に支障をきたすこととなりました。多くの自治体や大学が、「政治的論争を招く恐れがある」との理由で、「憲法」や「安全保障問題」を論題とした講演会や集会に場所を提供することを自粛した結果、多くの研究者や教員が講演会企画の中止などを余儀なくさせられました。私自身も、この流れの中で、研究者および教育者としての通常の活動が妨げられたと考えています。
この状況は、まず(1)今回の安保法制が従来の国民的合意や、多くの憲法学専門家による黙認または態度留保としての沈黙の許容限度を大きく超える内容となっていた事実があり、さらに、(2)この内容への国民的合意を一方的かつ拙速に作り出そうとした政府関係者や国会議員・地方議員の発言が、一般社会に深い心理的影響(萎縮効果)を与えたために生じたものであると考えています。
市民と識者とのコミュニケーションの阻害状態
上記のような社会状況の中で、今、多くの市民が、知りたい情報を信頼できる学識者から聞きたいと望んでいるにも変わらず、公民館などの会場が借りにくくなっているため、その機会を狭められています。
そのため、多くの市民と識者が国会前や街道など屋外の場所に集まりました。しかしこうした場所では、警察の過剰な警戒姿勢に市民が身の縮む思いをすることがしばしばあります。実際に私自身も、2015年7月、国会前でスピーチを行った後、帰りの移動の途中に複数の警察官から通行を止められ、自分たちの通行目的の説明に一時間近くもの時間を費やしたという不利益を被っています。
法的安定性の損傷と、教員の精神的負担
このように、2014年7月以来、教育現場や自治体の集会所管理責任者が困惑と精神的委縮状態に陥った結果、その影響下にある多数の研究者・教員が、職責遂行上の不利益と、人格的損害を被っています。
2015年6月の衆議院憲法審査会では、著名な憲法学者が、閣議決定による解釈変更の内容は「法的安定性を損なう」と発言しました。大学研究者がその教育場面や社会活動において被っている困惑状況と実害は、まさにその「法的安定性」が損なわれた現実場面なのだ、ということを、司法に重く受け止めてほしいと願っています。
とくに憲法教育者は、学生たちに「自国の憲法規範を教えるとともに、世界的普遍的な共通事項としての立憲規範を教える」という職責と、上記のような現状とを整合させることができず、重大な困難に直面しています。
それでも多くの研究者・教育者が自己の学問的良心に従って業務を続けていますが、ここには、従来にはなかった重大な精神的負荷が生じています。
たとえば、政府から精神的独立性を保った学問機関という意味での「大学の自治」の知識・理解を欠く文部科学大臣の発言(特定の政府要請を受け入れない自主判断をした大学の名を挙げて「恥ずかしい」と批判するなどの発言)を報道で知るにつけ、私たち大学教員は、「次はわが身が指弾の対象になるのでは」との深刻な不安感を感じながら、この心理的負荷を押して、通常の職責内容を引き受けているのです。
通常ならば、そのような混乱は民主過程の中で起きる一時的動揺ととらえられるでしょう。しかし今回の安全保障法制をめぐる混乱については、この困惑状況が民主過程で治癒される見込みがないため、裁判所に救済を求めるべきだと考えています。
「これは国民自身の決断による制度選択だ」という前提が成り立っておらず、関連法の施行・実施によって、国民の不安感や、憲法理解をめぐる学識者と政府の間の乖離がさらに進行拡大しつつあるからです。
平和教育、主権者教育、そしてそれらの根拠であり規範的集約点である憲法の教育を職務とする者は、人類の反省と叡智の結晶である憲法の規範内容を責任をもって教え、次世代に手渡していく責任があると考えています。上に述べた現状は、この職責を果たそうとする者を深刻に圧迫しています。この状況の原因は、2015年9月に議決されたとされている安全保障法制の一方的な進行によって、教育現場と市民社会に重大な矛盾・萎縮が生じたことにあると考えています。
多くの教員が通常の職責に現実的支障を被っている現状、あるいは通常の職責を果たすにあたって通常ならざる心理的負荷を被っている現状があります。そこから解放されるためには、裁判所に、自国の憲法の根幹と矛盾する国政内容を「違憲」と判断するよう求める以外にはないと考え、厳正なる判断を求める次第です。
以上