私たちが安保法制の違憲訴訟を提起する意義について
2016年4月1日
寺井 一弘
伊藤 真
一 はじめに
安倍政権は2014年の7月1日に集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行ない、2015年9月19日には歴史的に大きな汚点を残す採決の強行により集団的自衛権行使を容認する安保法制を国会で成立させました。これは完全に立憲主義に背反し、長年にわたって歴代内閣が堅持してきた政府解釈をも無視する暴挙でした。
この法案には実に多くの市民が全国各地から反対の声をあげ、圧倒的多くの憲法学者をはじめとして最高裁長官や内閣法制局長官を歴任した有識者の方々も憲法違反と批判しました。またこれを審議した国会運営が民主主義の実体を欠くものであったことは、私たち市民が国会中継で目の当たりにしたように明々白々でした。
しかし、採決強行から半年、安倍政権は、この違憲の安保法制を3月29日に施行し、あろうことか、憲法改正に挑戦することを公言し、7月の参議院選挙ではそのために必要な3分の2の議席獲得さえ目指すに至っています。一方、最近の世論調査では、国民の半数近くが「安保法制は必要であると回答した」旨の報道もなされています。事態はきわめて深刻であると言わなければなりません。
そうした政治社会状況の中で、私たちは、半年余の準備期間を経て、4月下旬までに「安保法制が憲法違反であることの判断を求める訴訟」すなわち、防衛出動命令等の差止めを求める行政訴訟と安保法制の成立により受けた精神的苦痛の回復を求めて国家賠償請求訴訟を提起することを決意しました。
全国の多くの弁護士から「立憲主義と民主主義が無視され続けるのを法律家として看過してよいのか」「戦争を憎み、人間の尊厳と平和を望む国民とともに精一杯の努力をするのが弁護士の使命ではないか」という声が寄せられ、前記訴訟の代理人に名乗りを上げる弁護士は全国すべての都道府県から600名を大きく超えるまでになりました。
このような法制に対して、司法が沈黙することは、基本的人権を保障することを使命とする司法権、そして憲法の基本的な目的に背馳し、それらの存在意義を根底から危うくするのではないかと考えた次第です。これは国家の危機でもあります。法制が施行された後は、同朋である自衛隊員が人を殺し殺される道、あるいは同朋がテロに遭う道を不可避的に歩むことになります。私たちも裁判所もその事態が発生するまで待っていなければならないのでしょうか。そうなっては完全に手遅れです。
事態を正視すれば、憲法の枠を超えた法制に対しては法の究極にある理念ないし理性に基づいて厳しく的確に対応することこそが求められているのではないでしょうか。司法権の正当性は最終的には国民の信頼に依拠しています。司法権が巨視的な観点から英断を示してこそ、国民の信頼をつなぎとめることができると確信しています。